クオリアなんてモノ、ねーよ。

個人的には「クオリア = ニューロンの発火パターン」で FA だと思うんですが、なんでこんなに論争が続いてるんですかね?
クオリアは物理的に存在するか」というのが論争の要旨らしいけど、要はニューロン群の一連の動きというダイナミズムに対してクオリアという名前を付けているのであって、器官とか物理量というスタティックな意味ではクオリアなんてモノは存在しないけれども、抽象的な概念として存在すると考えればいいわけでしょ。ニューロン群が道路だとすると発火パターンはバス路線みたいなもので、たとえば「六本木通りを都バスの車両が走る」という事象に対して「都01系統」という名前が付けられている。しかし「六本木通り = 都01系統」でもなければ「都バスの車両 = 都01系統」でもない。「それでは、都01系統というクオリアは存在するのか?」と問われたら、「実体としては存在しないが概念として存在する」と答えるしかないでしょ。
えっ? そんなことはわかってる? そうじゃなくて、ニューロンの発火パターンの先に、その結果として生じる「何か」がクオリアだって?
だとしたら、そんなモノは存在しないよ。そんなモノの存在を仮定したがること自体が人間の脳の思考パターンのクセであって、それは野生生活では役に立つ (だからそういう風に進化してきた) かもしれないけど、物理哲学をやるには何の役にも立たないから捨ててしまうといいよ。
私の体験から言うと、人間の脳は自己言及的な概念をストレートに理解することが苦手な気がする。だから、自己言及のループを打ち切るような高次の存在を仮定したがる (その顕著な例が「神」だったり「並行世界論」だったりする)。クオリアに関しても、意識の問題を意識の上で議論すること自体が本質的に自己言及的であって、それはそういうもんだと捉えるしかない。なのに、どこかで自己言及の循環を断ち切らないと世界を理解した気になれない人たちが騒ぎ出すから論争が収まらない…
…という私の考え方は、哲学屋さんの業界では何という派閥に属するんでしょうか?