非実在青少年のタイムスケール

表現規制に関する当事者間の主張が噛み合わない。噛み合わなすぎて気持ち悪い。なぜ噛み合わないのか?
それはきっと、どれだけ遠くまで未来を見通しているか――視界の時間軸で捉えるとわかりやすいんじゃないかと思った。

  • 慎重派は表現の自由の大切さを説く。それは人類社会が「数多の流血と涙の上に勝ち取ってきた」*1、個人の権利云々を超えた価値があるから。彼らの視界は孫の代、曾孫の代を超え、人類文明の未来を見据えている。
  • 推進派は子育て環境の浄化を求める。子を望み通りに育てたいけれど、自分ではノイズを遮断できないから。彼らの視界が届くのは、自分の子育てが終わるまで。孫の代に社会がどうなっていようが知ったことではない。
  • 公権力は都民の総意を口実に権限を拡げようとする。政治家は票が取れれば何でもいいから。官僚は天下り先が欲しいから。彼らの視界が届くのは、自分の任期が終わるまで。年金生活に入ったらあとは野となれ山となれ。

今、推進派と公権力がタッグを組んで近視眼的な行動に出ている。それに対し、慎重派は雲の上で抽象的な議論に終始している感がある。これではいかん。慎重派は長期的な視界を保ちながらも、地に足の付いた行動でもって推進派との妥協点を探り、公権力の増長を退ける必要がある。
あくまで理性的に、しかし実力行使をためらってはいけない。