進歩主義は非実在青少年の夢を見るか (1)

今回の非実在青少年騒動を追っている中で、私にひとつのアハ体験が起こった。それは、今まで私が「全く理解できない、気味の悪い、悪魔的な思想」としか捉えられなかった一連の考え方が、「保守主義」という輪郭を持って浮かび上がってきたこと。そして、その根源にある思想を理解するに至り、究極的には、彼らとの言論による合意形成が不可能だと悟ったことだ。
以下、まとまっていない思考の断片を書き散らかしてみるテスト。
アハ体験をもたらしたのは ミニマム憲法解釈 というページだった。いわく、

  • 日本国憲法は天賦人権説に基づいている。天賦人権説とは「人は生まれながらにして人権を持っている」という考え方で、子供や犯罪者や外国人にも人権がある。
  • 一方、日本人の間には国賦人権説も根強く残っている。国賦人権説とは「国家が認めた国民に人権を与える」という考え方で、子供や犯罪者や外国人には人権がない。

私の中高の歴史教諭は戦中生まれで、彼に習った生徒はみな日本国憲法前文を暗唱させられた。おかげさまで私は、天賦人権説が現代日本国民の共通認識であって、国賦人権説は過去のものになったのだと信じて疑わなかった。しかし、天賦人権説を前提とすると「青少年健全育成のために表現規制が必要」とする主張の根拠がわからなくなる。天賦人権説を出発点として論理をたどる限り、どこをどうこねくり回したって表現規制なんか不可能なのだ。だから私は、表現規制派の思考回路そのものを「気味の悪い、悪魔的な存在」と捉えるしかなかった。
ところが! 国賦人権説は決して過去のものではなく、日本国憲法は日本国民の共通認識ではなかったのだ!! ナ、ナンダッテー(AA略
『ミニマム憲法解釈』は教えてくれた。天賦人権説はフランス革命、国賦人権説はドイツ統一という、それぞれの歴史的経緯から便宜的に作られた価値基準にすぎない。天賦人権説にもとづく日本国憲法は、日本国民にとってすら絶対的な価値基準ではないのだと。そして、日本における保守主義の根底には国賦人権説が横たわっているのだと。そんな日本で憲法に天賦人権説を採用できたのは敗戦直後というタイミングの妙でしかなく、その価値観が未来永劫続くと考えるのは楽観的すぎる。天賦人権説を守りたければ、国賦人権説と戦い続けなければならない。
つづく。

進歩主義は非実在青少年の夢を見るか (2)

つづき。
ここで「国賦人権説 ←→ 天賦人権説」に似た対立軸として「保守主義 ←→ 進歩主義」という概念を持ち出してみるテスト。
保守主義進歩主義の違いの根源は時間観にある、とどこかで読んだ記憶がある*1。いわく、

  • 保守主義の時間観は「循環」。Unicode で書くと「↻」。先祖代々受け継いできた土地を守り、子孫に伝えていくことが人間社会の目的。祖父の代も孫の代も根本的には変わらない生活をしている。
  • 進歩主義の時間観は「発展」。Unicode で書くと「↗」。先人の偉業の上に新たな発明を積み重ね、より良い生活を求め続けることが人間社会の意義。祖父の代と孫の代では生活はがらっと変わる。

前者は島・農耕系、後者は大陸・狩猟系の伝統だろうが、近代国家はみな大陸・農耕系であり*2、どちらかといえば進歩主義の時間観の方が現状にマッチしている。
では、進歩主義は未来永劫続くのか? 私の答えは NO だ。進歩主義は持続可能ではない。ふたつの理由がある。

  • ひとつは、人類が地球上でしか生きられないこと。進歩主義を推し進めていくと、最終的には地球全体がひとつの村社会になる。宇宙船地球号を持続可能とするために、全員が自覚を持って生きる社会。それはスケールがでかいだけの保守主義そのものじゃまいか? つまり、地球という有限のリソースに拘束されていることによって、突き詰めれば進歩主義保守主義は平衡点に達するだろう。
  • もうひとつは、人類が有性生殖方式の生命体であること。進歩主義が進めば進むほど教育に長い時間がかかり、「大人になる」前に生殖可能年齢を過ぎてしまう。そうなると進歩主義者だけでは人口を維持できなくなる。現に先進国では少子化という形でこの問題が表出している。種の保存という生命体の究極目的に照らせば、進歩主義はむしろ不利である。進歩主義を突き詰めすぎれば人類は自滅するだろう。

つづく。

*1:出典が思い出せない…誰かの話を聞いただけかもしれない

*2:交通遮断的な意味で島は消えたし、食糧調達的な意味で狩猟は消えた

進歩主義は非実在青少年の夢を見るか (3)

つづき。
何の話をしてたのかわからなくなってきたので、冒頭に書いた「彼らとの言論による合意形成が不可能だと悟った」理由を書いてみるテスト。
言論の自由」は自己言及的な非対称性を持つ不安定な状態だ。言論によって言論の自由を失うことは可能だが、逆はほとんど不可能である。どういうことかというと、

  • 言論の自由がある体制では、「言論の自由をなくせ」という言論もまた自由でなくてはならない。なくせ派≒国賦人権説が議会で多数を占めれば、民主的な手続きを経て言論の自由を廃止できる。
  • 言論の自由がない体制では、「言論の自由をよこせ」という言論は暴力によって禁止される。よこせ派≒天賦人権説が人口の多数を占めても、暴力に勝たない限り言論の自由は手に入らない。そして、非暴力をもって暴力に勝つことはきわめて難しい。

したがって長期的に (数世代〜十数世代のスパンで) 見ると、言論の自由を維持するためには流血が避けられないということになる。
なんだか悲観的な結論に達してしまった。言論によって言論の自由を維持できる制度設計が可能ならそれに越したことはないのだが…ひょっとして、それってゲーム理論的に不可能だったりする? (´・ω・`)